
雛人形のはじまりは、とても素朴な祈りから生まれました。
時代をさかのぼると、平安時代。
人の形をした「人形(ひとがた)」に、自分の穢れや災いを移し、川や海へ流す風習がありました。
災いを受け止め、健やかな成長を祈る。
そこには、声に出さない深い愛情があります。
私たちは日々、不安を抱えます。
けれど、それを「なかったこと」にするのではなく、
そっと形にして、手放す。
雛人形の始まりは、
そんな静かな知恵だったのではないでしょうか。
春の光のなかで、
人形のやわらかな表情を見つめると、
ただ、静かに、素朴な祈りと繋がっていることに
安堵を感じます。
けれど、その安堵は、どこから来るのでしょう。
人は、不安を消すことはできません。
子を思う親の心も、未来を思う自分の心も、
完全に晴れることはない。
だからこそ、昔の人は考えたのだと思います。
抱え込まずに、形にする。
目に見えるものに託す。
そして、いったん自分の手から離す。
それは諦めではなく、
生きていくための整理です。
川に流すという行為には、
「もう考えない」という乱暴さはありません。
むしろ、「ここまで考えた」という区切りがあります。
区切りがあるから、また歩ける。
雛人形を飾るというのも、
同じ営みなのかもしれません。
災いを受け止める力を、
自分一人で背負わなくてもいいという感覚。
祈りを、目に見える形に預けること。
それは、信仰というより、生活の知恵です。
私たちは今、川に人形を流すことはありません。
けれど、日々の中で、
手放すべきものを抱え続けてはいないでしょうか。
言葉にする。
書き出す。
誰かに話す。
あるいは、ただ小さな人形を飾る。
形にして、手放す。
その往復のなかに、
静かな強さが育つ。
雛人形のやわらかな表情は、
「大丈夫」と約束しているわけではありません。
ただ、
不安を抱えながらも生きていける、
そのことを思い出させてくれるのです。
そして、その記憶と繋がったとき、
私たちは少しだけ、呼吸が深くなる。
それが、安堵の正体なのかもしれません。